ホーム留学奮闘記|2003年11月後半

11月21日(木)―――


 とうとう今日以前から計画していた「東海岸車でぶっこみの旅」に行ってきます!←旅の名前変わってるし。

 予定は以前日記に書いたように、ボストン→ニューヨーク→ワシントンDCのルートで行きます。もしかしたら行きにナイアガラの滝に寄るかも。

 今日の朝は、移動に使うレンタカーを借りにピオリアへ行きました。
一応ココにもレンタカー会社はあるのですが、走行距離に制限があり(1050マイルまで)、東海岸を走行するとなると、とんでもないほど高くついてしまうので、一番近いピオリアで借りることになったのです。
朝のクラスが終わった直後に行って、約1時間半後にピオリア空港へ到着。
早速Hertz社のカウンターへ行き、借りようとするも、いきなりここで問題が発生。
テツ君の認証用のクレジットカードの期限が切れていて、デビットカードでは認証されなかったため、借りることが出来ない状態になってしまった。

 う〜ん、まいったなー、やべーなこりゃー。←焦りにより、ちょっと棒読みで

 悩んでいると受付の人が隣のBudget社を紹介してくれて、登録を申請しました。
しかし、やはりここでもデビットカードでは無理で、さらに悩む二人。
Budget社の受付の人が銀行に問い合わせて、デビットカードの使用できるお金の上限を上げることができれば、借りることは可能だ、という提案があったので、早速銀行へ問い合わせることに。

 銀行から折り返しの電話があり、無事上限を上げることができたというので、素早くカウンターへ行き、登録を済ませました。よかったーよかったー。

 Hertz社で予定してたMazda 626とは違い、Pontiac Grand Amでしたが、中が結構広く、燃費も中々なので、これはこれで良しとしましょう。


 現在午後2時、出発は午後6時を予定しています。

 安全かつ、良い旅になるよう願って。





 行ってきます!!!!!



11月28日(金)―――


 どうも無事生還です!


 って言っても実は昨日帰ってきたんですけどね。

 昨日は帰ってきてからいろいろな事(ぶっちゃけ覚えてない)して、すぐに就寝ですよ。

 そして今日は今までの疲れのツケがドバッと来たようで、何時間も寝てしまいました。
ペーパー書かないといけないのに何やってんですかね。俺。

 というわけで、今日はペーパーの一つを終わらせるために徹夜です!←疲れ倍増予定


 旅行日記はファイナルが終わった頃に書こうと思ってます!
何せこれからは地獄の二週間が待ってるので・・・・。日記の更新の怠けるかも・・・。


 


11月29日(土)―――

  1992年

     11月27日

         小学校3年生の秋



 人生という名の歯車の一つが欠けた日。



 その日の朝、いつも通りに学校へ出掛け、いつも通りに学校の授業を終え帰宅し、いつも通りに家族みんなでその日を終えるのだろうと思っていた。

 しかし、それは4時限目だっただろうか、音楽の授業の途中から始まった。
突然教頭先生が入ってきて、担任の先生へ深刻そうな顔で何かを伝言をしている。

当時の俺は、そういう事に関してはまったく関心を持たなかったので、その教頭先生についてもまったく気にしてはいなかった。
伝言が終わった次の瞬間、担任の先生が俺の所へやってきた。

 「今、迎えの方が来てるから、今日は早退しなさい。」

先生が言った。
俺はわけがわからないまま、帰宅の準備をして玄関へ向う。
玄関に行くと、そこには当時5年生だった兄が、同じく下校の格好をして立っていた。

 「みんなでおばあちゃんの家にでも行くのかな?」

そんな事を思っていた俺は、てっきり父か母が迎えに来ているものだと思っていた。
だけど、来ていたのは親戚のおばさん。

 胸騒ぎがする。

 行き先を聞けないまま、三人でタクシーに乗り、走り出した。

 タクシー内に漂う不気味な沈黙。
今の俺なら、何が嫌なことがあったのだろうと感じ取ることはできると思うが、当時の俺はまったくそういうのはなかった。タクシーに乗っている間ずっと何をするのだろうと考えていたのを覚えている。



 約20分後、到着したのは大きな病院だった。

「誰か入院しちゃったのかな??」

 親戚の誰かが大きなケガをしたから、家族みんなでお見舞いするんだろう。自分の中ではそういう結論に達していた。しかし、嫌な胸騒ぎは納まらない。


 連れて行かれたのは小さなロビー。
そこには数人の親戚と、俯いて力が抜けているかのような様子の母が座っていた。
更に大きくなる胸騒ぎ、そして早くなる心臓の鼓動。

 突然、母が大きな声で泣き始めた。
あまりに突然だったので、驚いて更に何が起こったのか解からなくなる。頭が混乱したと言ってもいいだろう。
今まで見たこともない程に泣き叫ぶ母を見て、何も知らない俺も涙が出てきそうだった。
 自分の気持ちを落ち着かそうと、必死に他の事を考えたり、壁に書かれていた落書きを何度も何度も指でなぞった。だけども、母の泣き声が耳に突き刺さる。


 約10分後ぐらいに病院の人がやってきたが、その時は1時間以上待ったような感覚だった。
普通の病室に連れて行かれるのだろうと思っていた俺には、まったく見当外れな通路を案内され、そこをゆっくり歩いているため、焦りを隠すことができなかった。
薄暗く、狭い、いかにもお化け出てきそうな通路だ。
今でもその通路は鮮明に覚えている。忘れたい風景の一つだが、今でもそれはできない。


 そして到着した部屋。小さな部屋。


 そこのベッドに、

 青白く、冷たくなり、目を閉じて眠っている、父がいた。


 その瞬間、すべてを理解し、そして大粒の涙が溢れ出てきた。

父の顔、身体、手。どこを触っても冷たく、ピクリとも動かない。
泣き叫んでいる俺にもまったく反応がない。


 そう、父は、死んだのだ。


 何も考える事ができず、ただ泣き叫ぶ俺。
いや、泣き叫ぶことしかできなかったと言った方が正解だろう。

 長い時間泣き、そして長い時間、その二度と開くことのない目を覚ましてくれることを祈った。



 実家で御通夜が開かれ、その日は早めに寝ることにした。
今まで一緒に居た父がいない初めての夜。
もう、父はここにはいないという実感がなかった。

 翌日、葬式が行われた。
俺は父が眠るそのすぐ側で、訪れてくれた人達を迎えていた。

 その場所で、泣いても構わない、というよりも、泣くべき所で俺はニコニコしていた。

なぜなら、友達や先生、その他の知り合いを悲しませたくなかったから。
俺が泣いていると、その人達まで悲しくなってしまうだろうと思ったから。

そして、元気にしていれば父も喜ぶと思ったから。



 長時間の正座の状態に疲れた俺は、休憩のために一旦2階へ移動した。
ふと窓の外を見てみると、そこで目に入ったのが、葬式に訪れてくれた人々の長蛇の列。
俺はここでようやく父がみんなに親しまれてきたのだという事を知った。
こんな大勢の人が、父に最後の別れを告げるために来てくれたんだ。
9歳になってやっとわかった父のすごさ。
もう会えなくなってなってやっと気が付いた父のすごさ。

 それから数ヶ月間、何度も父が戻ってくることを祈った。
もちろんそれが叶うことはなかったが、その代わりに何度も夢の中に現れてくれた。
たかが夢かと思われるかもしれないが、その時が一番幸せな時間だった。

 今ではもう夢の中に現れてくれることはなくなったけど、もしまた来てくれるようなら、その時は今までの思い出を目が覚めるその時まで話してあげるよ。



 天国にいる父へ。


   いつまでも俺達を見守っててね。


      いつまでも。

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